東神戸教会
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 メッセージ   2015年度のメッセージ   (横山順一牧師)



20160327 イースター礼拝
メッセージ 『ミッション・インポッシブル・イースター』 マタイによる福音書 28:1~10

 フランス革命から広がった普通選挙、参政権が与えられた
のは日本では1925年(男性)であり、女性に至っては、1945年のこと。長い闘いの末の獲得だが、まだ100年にも満たない歴史。それほど女性の地位は低く保たれて来たのだ。
 聖書の時代は、もっとひどく、女性は男性の付属物でしかない扱いだった。そんな女性たちに、主の復活の出来事が最初に知らされた。そもそも、十字架から埋葬にいたるすべてをも届けたのは、婦人たちだった。
 思えば、主の誕生を最初に知らされたのは羊飼いだった。そして復活は女性たち。このことに、救い主の意味、神さまの思いが如実に示されている。
 色々なことが当たり前となり、モノやマニュアルの中で、感覚が鈍くなっている現代の私たち。
 復活は私たちの目を覚ます出来事。五感を研ぎ澄まし、ありのままの心(野生)で復活を味わいたい。そしてそれを普段の生活に生かしたいと思う。
 ミッション・インポッシブル・イースター。不可能と思われる使命が、しかしいつか実現されて行く。私たちは復活を通してそれを知らされる。

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20160320
メッセージ 『キリスト教からの卒業式』  ヨハネによる福音書18:1~14

 ある牧師宅の犬トムは、なつかず2日間、吠え続けた。
テキストは、イエスの逮捕劇。ヨハネは他の福音書にはない、堂々としたイエスの態度を記した。
一隊の兵士まで動員して来たものものしい連中に対して、イエスは自ら進み出て自分を証し、更に弟子たちを救うために命じられた。
 また、剣を取ったペトロには、「この杯を飲まずにおられようか」と前向きな言葉をかけられたのだった。
 ヨハネの描いたイエス像の背景には、主の死後60~70年経って変化したイエス像、再び出て来た律法主義への拒否があったろう。それはいつの時代も同じだ。私たちは、勝手に人間が作り上げた「キリスト教」ではなく、イエスの「福音」を生きるべきなのだ。
 昨今、意見の違う者を受け入れず排除する光景があちこちで見られる。方や、イエスは裏切りのユダさえ守ろうとされた。それは生前、再三にわたって「すべての者が救われるよう」語り続けられたとおりだった。これが赦す方の愛だった。
 このイエス(の福音)があればこそ、私たちがどんなに弱くても信じて委ねることができる。期待と可能性を抱くことができる。それが「福音」に生きることだ。感謝してイースターを待ち望みたい。

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20160313
メッセージ 『わたしの今日が、誰かの明日になるなら』  ヨハネによる福音書12:20~26

 誰にも辛い過去がある。人によっては長くひきずる重いものもある。さだまさし原作の映画「アントキノイノチ」も過去に苦しみ乗り越えようとする青年を描く。
 ユダヤ人の祭りである過ぎ越しの祭りにギリシャ人たちがやって来た。名前も素性も分からない。彼らはフィリポというギリシャの名前を頼って、イエスに面会しようとした。
 恐らく切羽詰まり、言うに言えない過去を背負ってやって来たに違いない。その彼らに、イエスは答えた。
 実はイエスこそ人の事どころではない、十字架直前にあって、助けて欲しいと叫びたい状況だった。或る意味ぶざまである。その惨めさを隠さず、言葉を紡いだ。そこには「私の今日が、誰かの明日になるなら」との深い思いが込められていた。
 すなわち、過去を美化さえしてしまう私たちの「アントキノイノチ」ではなく、今「コントキノイノチ」だと示されたのだ。
 恐れが満ちているさ中でさえも、主に従う信仰。そこに永遠に至る命がある。ぶざまであっても良い、コントキノイノチに生きることが、未来を生きること。永遠の命は誰にも与えられる。

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20160306
メッセージ 『幸せならサイドに示そうよ!』  ヨハネによる福音書 12:1~8

 OCC2階大集会室の入り口に壷を持った女性と険しい顔つきの男性たちの絵が飾られている。本テキストを描いた絵画である。
 その女性マリアが持っていたのは、非常に高価なナルドの香油。現代で300万円はする代物を、惜しげもなく使い、自分の髪の毛でイエスの足を拭った彼女だった。
 が、ユダを始めとする弟子たちは「無駄遣い」と憤慨した。マリアの行為の前に起こった出来事を忘れていたから。
 直前、兄弟のラザロが重い病で亡くなったのだ。主が生き返らせた。その結果、はっきりと命を狙われる事となった。
 そんな危険を冒して再び訪問された主を、マリアは最大限の喜びをもってもてなしたのだ。これぞ感謝、これぞ分かち合いだった。
 弟子たちだけでなく、私たちもまたこの世的価値基準に生きている。一番良いものは取っておく私たち。
 イエスはお金で買えない最大のもの、命を私たちに差し出し十字架につかれた。それは一度きりの出来事だが、かたくなな私たちを打ち壊すために、必要なら千回でも万回でもそれをなす主だと信じる。この惜しみない愛を覚えたい。そしてその幸せを周囲(サイド)に伝えたい。

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20160228
メッセージ 『家族はつらいよ』  ヨハネによる福音書 6:60~71

 レントもようやく半分を終えようとしている。
何かを我慢している人もいる。なかなかできず、忸怩たる思いを持つ人もいよう。
 テキストの次段落では、仮庵の祭りでエルサレムに上京する予定だった弟たちがイエスのもとを訪れ、「堂々たる活動をなせ」と詰め寄る。彼らはイエスに「力強さ」を求めていた。家族だからこそのやっかいな存在だった。
 5000人の給食の業を体験し、力の業を求めたガリラヤの群衆たち。「自分が命のパン」だと会堂で語るイエスに失望し、多くが離れて行った。
 わずかに12弟子が留まったが、イエスは裏切る者を予見し、最終的に皆が離れると予測していた。寂しさを抱えての発言が悲しい。
 「天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ12:50)
英語のファミリーは、ラテン語のファミリアから来ている。イエスによって信仰の家族とされた私たち。大いに足りないことではある。それでもつないで下さるは主イエス。「仕える者」でありたいと願う。

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20160221
メッセージ 『見ザルの心得』  ヨハネによる福音書 9:13~41
祈り     佐藤成美(さとう・しげよし)牧師(甲子園教会)
プロフィール:1961年神戸生。関西学院大学文学部美学科及び神学部卒業、同大学院修了。
         高槻教会を経て、2011年より甲子園教会牧師。
         0歳と2歳のこどもを相手に、連れ合いと共に子育て奮闘中。

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20160214
メッセージ 『惨敗を、もっとおいしく』  マタイによる福音書 4:1~11

 40日のイエスの荒れ野の試練。山北前教団議長が提出した教団の「荒れ野の40年」との歴史認識は今に至るまで物議をかもし続ける。見方によって事の本質を見誤ることがある。
 イエスは何故、誰もいない場所で断食をされたか。また、自らの意志というよりは「霊に導かれ」荒れ野に出かけたと記されるのは、どういう意味か。
 「一人である」ことの大切さがそこに込められている。しかも、己に打ち勝つための修行ではなく、むしろ負けてしまう「弱さ」を改めて知るためではなかったか。
 一人であることの弱さをイエスは誠実に見つめられた。悪魔は弱さの折に一回のみならず繰り返し登場する。
 その危機に見事「打ち勝つ」など容易なことではない。だが、神さまとつながっている限り、それを乗り越える(過ぎ越す)ことは不可能ではない。それがイエスの伝えたかったこと。
 心の中に立てられる主の十字架。それは惨敗の象徴だ。しかし弱さの折に「命」につながることを何としても覚えていたい。

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20160207
メッセージ 『腹が立っては戦はできぬ!』  ヨハネにゆる福音書 6:1~15

 私たちを導き、支えるものは確かにある。思いがけない時に、思いがけない形で与えられる。有名な5000人の給食の出来事が、例えばそれだ。
 ヨハネ福音書は一番最後の福音書。時代も激変し、何とか給食の意味を伝えようと腐心したに違いない。単なる食べ物の奇跡ではないのだ。
 それを暗示するのが「しるし」という言葉。フィリポとアンデレ二人に食料について問うたのはイエスの作戦だった。
 現実から言えば、二人の返答の通り二匹の魚と五つのパンで足りるはずがない。それが常識。しかしこの出来事は食べ物の数や量を問題にしたものではない。不思議な力に導かれ、支えられる私たちの命が描かれているのだ。
 残念ながらその食事を直接受けた群衆たちには何も分からなかった。それどころかイエスを「王にするため連れて行こう」と画策した。
 イエスからすれば舌打ちの事態。しかし主は淡々と行動された。主の戦いはなお続くからだった。私たちは間違えず、その思いを受ける他ない。

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20160131
メッセージ 『君の代わりはどこにもいない』  ヨハネによる福音書 5:1~18

 お祭りは、本来みんなが喜び、楽しむ行事であるはず。が、それを喜べない人もいる。また排除されている人もいる。悲しい現実だ。
 ユダヤの祭りも同様。ほんのすぐ近い場所で、賑やかなお祭りが催されながら、覚えられない人がいた。エルサレム神殿の北東角に、ベトザダの池があり、その周囲には多くの病人が横たわっていた。
彼らは池の水面が動くときに一番に入れば癒されるという言い伝えを信じて待ち続けた。38年も苦しんだ人は、どうにも一番に入れず半ば諦念の状態であったろう。
 なぜかそこにイエスが行かれ、声をかけられたのだ。「良くなりたいか」とは「健やかになりたいか」という意味だった。
 生きていながら死んだも同然。まるで存在が消されたかのような病人に「起きて床を担ぎ、歩け」とイエスは命じられた。それは命が回復された瞬間だった。そしてそのようになった。あなたの代わりはどこにもいない、と。
 イエスがどこに立たれたか、その場所、その思いをしかと受けたい。

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20160124
メッセージ 『こんなこといいな、できたらいいな!』 ヨハネによる福音書 8:31~36

 最も大事な命とつながるようにと書かれた年賀状に思いを馳せる。
 テキストは有名な文言。「真理はあなたたち(人)を自由にする。」とイエスは語った。しかし直接聞いたユダヤ人たちには意味が分からなかった。彼らにとって「アブラハムの末裔」という血筋は自明の理のことで、逆にその自負が彼ら自身を縛っていた。
 私たちは何につながり、何に立って生きるのか。全豪オープンテニスで錦織選手を応援していた日本人ファンの多くが「日の丸」を用いた。
 石原吉郎と詩人が「断念と自由」という詩を残している。この世的な価値基準につながり、結ばれることからの訣別をうたった詩である。
 あんなことができたら、こんなことができたらいいな、という夢や希望が大人にもあろう。それを阻むのがこの世的原理。それらから自由にならねば不可能なことばかりだ。
 実現は難しいのかもしれない。しかしなお主の言葉に立ちたい。そこからしか始まらないからだ。

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20160117
メッセージ 『当日消印有効』 ヨハネによる福音書  1:43~51

 石川県の岡田貴嗣(たかし)君は生まれつきの重病でクラスメートたちの励ましによって支えられ、遂に学校に復帰した。「生きているだけで人の役に立つ」と発見し、12歳で召された。級友たちは今もたかし君から受けたものの大きさを忘れない。人には「生きてゆく言葉」が必要だ。
 ナタナエルは他の弟子と違い、すぐにイエスに従うことができなかった。疑いの言葉を吐いた。ガリラヤにも自分にも自信を持てずにいた。が、イエスの返答は「まことのイスラエル人だ」との驚くべきものだった。
 恐らく彼はカナの結婚式に同行した。そこで水をぶどう酒に変える主の業を目の当たりにした。諦めず、どうにか力を与えんとするイエスの姿を受け取った。21章には「ガリラヤのカナ出身のナタナエル」と記されている。
 神は諦められない。そのためにイエスはナタナエルに言葉をかけた。今日を生きよう、と今日もイエスは私たちに声をかけられる。偉大な光景を見たいと思う。

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20160110
メッセージ 『どこかで春が生まれてる』
 
 冬至からわずか2週間あまり、既に日が長くなっているのを感じる。
舘野泉という主にフィンランドで活躍してきたピアニストがいる。14年前、彼は脳出血で倒れ、結果右半身不随となった。絶望の数年が立った或る日、バイオリニストの息子が楽譜をプレゼントした。それは左手で演奏するためのもの。
 舘野さんは捕われを捨て、左手のピアニストとして新たに生き始める。舘野さんの前に楽譜という形ですでに道が与えられていた。
 テキストは洗礼者ヨハネの箇所。ヨハネは自分より後から来る方の証しとして使命を果たした。
洗礼は、神が下さる次の業を臨むこと。ゴールではなく、スタートだ。
 1907年、救世軍のブース大将は「すべて光に忠実に歩む者はみ心に適った者、現在の光に忠実な者は更に大きな光を与えられる」と語った。
 自分を捨てた時に花が咲く。曽根で農村伝道に生きた石田英雄牧師は早世したが、彼に影響を受けた種谷俊一に継がれ、更には柴田もゆるに継がれる。
 今ここに見えない花がある。いつどこで咲くか分からない春の種。備えの時を過ごしている種の開花を信じて今を過ごし待ちたいと思う。

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20160103 新年礼拝
メッセージ 『ALWAYS 三丁目の朝日―いち、にぃの、SUN!』

  「臨終間際の人に手間暇かけることは無駄ではないか?」と問われたマザー・テレサは、むしろ「そのために使われた物資や人手・時間ほど貴い使われ方はない」と即座に返答した。
 ここにキリスト教信仰の真髄が示されている。合理化・効率化とは真逆の位置に主は立たれた。一見非効率な生き方の中に「愛」があった。
 マザー・テレサが初来日した折、「カルカッタで奉仕したい」と申し出た女子学生がいた。これに「あなたの周辺のカルカッタで喜んで働く人になって下さい」とマザーは言った。
 依然、日本の中にも「カルカッタ」が存在する。闇は闇のままである。
 同様に闇が続くユダヤの民にイザヤは神の呼びかけを昇る太陽の光として語り伝えた。
 私たちはたまたまここに集っているのではない。平和を作る者として集められたのだ。
 夕陽に慰めや癒しを受ける私たちは、一方で昇る朝日から希望と励ましを受ける。(御影)3丁目に新しい朝が日々与えられる。
 2016年、その希望の朝日を浴びながら、えいやっと押し出される者となりたく願う。

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20151227 歳晩礼拝
メッセージ 『ワンダークリスマス』

 東の博士(占星術)たちの出来事。或る牧師は、羊飼い同様、彼らもまた用いられたのだと述べる。
乳香も没薬も、薬としても使用された貴重なもの。彼らが携えて来たものは、貧しいヨセフ・マリアが赤ん坊を育てるのに大いに役立つものだった。黄金に至っては言うまでもない。エジプトへの逃避行の際にどんなに助かったか。それは王冠のためのものではなかった。
「東」はイスラエルにとって、不吉な方角と言える。アッシリア、バビロニアなどの敵は、みな東の国だった。
その「東」からやって来た博士たちの行いが用いられたのだ。
世界になお暗闇が覆う2015年末。用いられず、切り捨てられる人々が何と多いことか。
クリスマスは、思いがけない人たちが思いがけない形で用いられた出来事。諦める訳にはゆかない、ワンダークリスマスである。新しい年へ備えて覚えたい。

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20151224  クリスマスイヴ礼拝
メッセージ  『イエス追跡大作戦』

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20151220  クリスマス礼拝  
メッセージ  『今年もプレゼントは「軌跡」です』  マタイによる福音書1:18~25

 USJの2015年Xマスキャッチコピーは「今年のプレゼントは奇跡です」。これに対抗せざるを得ない。
 我らの主イエスは、「追い出された羊」を忘れず探し、見つけて戻す方である。
 オバマさんが米大統領になって8年、残念ながら、まだ「自由が来た!」とは言えない。それでも次の一歩が来ると信じたい。
 泊まる場所もなく、家畜小屋で生まれるしかなかったイエスの誕生の物語。人に言えない事情からすれば、或いは両親には楽だったか。
 ただ、やはり寂しいという他はない。そこには初めから「欠け」があった。
 だが、その欠けこそ、神の夢であり計画だった。招かれた羊飼いはその象徴だった。そこに神は、追い出された羊を見た。そして呼びかけられたのだ。イエスはその神の計画を確かに受けて成長した。
 神の夢と計画を叶えるシーンは未完成。だからこそ「今年もプレゼントは『軌跡』です」。主の生涯を語り伝えるため、その日まで毎年用いられる私たちだ。その希望を分かち合いたい。

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20151213
メッセージ  『アイシテルのサイン』  ヨハネによる福音書1:19~28

 坂村真民の詩「冬が来たら」には、課題と正面から向き合い、まずは沈黙して聴こうとの、詩人の思いが満ちている。この詩はヨハネの生き方をも代弁しているように思う。彼もまた「沈黙して聴こう」とした人だった。
ヨルダン川で洗礼を授けるヨハネに、ファリサイ派が反発した。「誰の許可で、何の権威で?」と。」ヨハネは、自分より後から来る方のための道備えだと返答した。彼にとって洗礼を授けることは第一義ではなかった。それは自分を愛して用いられる神さまへの応答であり、他者への愛のサインだった。
キング牧師のワシントン大行進の折、演説の前に歌ったマリアン・アンダーソンは、舞台の前、いつも舞台の袖から観客に向け「アイラブユー」と3回つぶやくのが常だった。それは落ち着くためのルーティンではなく、愛され用いられていることへの感謝と、他者への愛のサインだった。
私たちも荒れ野の人生に立っている。しかしすでに救い主が与えられ、ヨハネとは立場が違う。気づかないだけで、神からの愛のサインは、もしかしたら身近に満ちているのかもしれない。そのアイシテルのサインに気づき、私たちも誰かへサインを送りたい。

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20151206
メッセージ  『お帰りなさい!』  列王記上 22:1~17

 グーグルのインパクトチャレンジ・グランプリに選ばれたクライムレス事業。釜ヶ崎の労働者を使って犯罪を減少させる目的。だが、実は釜ヶ崎を分断させる危うい思想である。
テキストはアハブ王の時代。アハブは悪い画策によって、ヨシャファトを仲間にしようとする。このために集められた400名もの預言者は、偽りの預言者ばかりだった。そこでヨシャファトからさらに招かれたのがミカヤ。彼は慎重に神から示された言葉を進言した。イスラエルの人々を家に帰せ、と。越冬のために作られたシェルターは、ハウスかもしれないがホームではない。渡辺和子さんは、学生たち一人一人を大切にし、それに気づいた学生が、感謝を表した。そこに温かいホームがあった。ウナムーノは「苦悩においてのみ自分自身となる」と書いている。帰る場所があってこそ自分が整えられるのだ。
5000人の給食の時のイエスの姿を思う。深い憐みをもって、そこを「ホーム」とされた。イエスはいつもそこで「お帰りなさい」と招き入れる方であるに違いない。

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20151129
メッセージ  『365日の神飛行機』  イザヤ書 52:1~10

 無教会派の石原兵永牧師は、戦前、弾圧を恐れず「平和の福音」を説き続けた。2015年はどのように位置づけられる年だったろう。
 テキストはイザヤ書52章。バビロニア捕囚後、ユダヤの民は、夢も希望もなく力を失っていた。
 しかし「真実の主が王となって到来する」ことをイザヤは民に語り、励まし続けた。「奮い立て」と。
 カンボジアの政情が不安定だった頃、一人のフランス人記者が難民キャンプを訪れ、そこに死んだようにいた少年に取材のためカバンを預けた。それは一種の賭けだった。
 少年は「用いられた」喜びにあふれて働いた。イザヤが民たちに語ったのも、「用いられる」喜びについてだった。後年、再びカンボジアを訪れた記者は、かの少年が劇的に変わって働いていることを聞かされた。
 朝ドラ「あさが来た」の主題歌は、「思い通りにならない日は、明日がんばろう」と歌う。人生は思い通りにならないもの。その私たちを神が運ぶのだ。誰もが用いられるよう。
 新たな年がやって来た。365日、私たちを翼に載せて運ぶ神により頼んで歩みたい。

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20151122
メッセージ  『幸せなレシピ』 申命記 14:22~29

 「ゴロリともりのレストラン」(かとうまふみ作、岩崎書店)は、実は怖い絵本だ。食欲にはキリがないこと、一人で食べることの虚しさ(不幸せ)が描かれる。
 申命記には様々な神さまからの命令が記されている。その中の「収穫の十分の一に関する規定」。
仏教のお供えとは少し違った内容である。
 なぜ毎年十分の一を取り分けるのか?
 それはそれを下さったのが神さまであると覚えるためだ。
 そして感謝のうちに、家族と共に食べて喜び祝うため。
 3年目ごとに更に収穫物の十分の一を取り分けるのは、人々から嫌われていたレビ人、外国人、孤児や寡婦など、生活に困っていた人、世の片隅に追いやられていた人たちに分けるため。それもほんの少しでなく、「満ち足りる」(28節)ためだった。
 これは神さまからの「おすそ分け」の命令だ。
命令というより、みんなが「幸せ」になるための方策(レシピ)だ。
 愛餐会とは、アガペー(愛)という言葉に由来する。私たちも愛のおすそ分けをしよう。

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20151115
メッセージ 『こんにちは赤ちゃん、私がパパよ。』 出エジプト記 2:1~10

 熊本の慈恵病院。2007年に赤ちゃんポスト「こうのとりのゆりかご」を設置して話題になったキリスト教主義の病院だ。以来、多くの幼子の命を救って現在に至る。
 およそ3300年前、エジプトで「ユダヤ人の男子を殺す」王命が出された。史上初の大虐殺の開始だった。
 ヨケべドという女性はこの命令に反した。赤ん坊の命が美しかったからである。パピルスで編んだかごに入れてナイル川に流された赤ちゃんは、果たして、水浴びに来ていたファラオの王女、その場にいて機転を利かした姉によって命を救われ、成長することができた。モーセである。
 1963年「こんにちは赤ちゃん、私がママよ」と歌った梓みちよのヒット曲は、元は「私がパパよ」だった。
 当時、高度経済成長を目指して猛進していた日本社会に、ささやかな抵抗を試みた曲だったと思う。
 今も続く男性社会。だからこそ「女性が輝く」だの「一億総活躍」だの言わねばならない。モーセを救った3人の女性を思う。私たちも目の前の命に手を差し伸べる者でありたい。

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20151108
メッセージ  『そんな訳ないやろ? いや、そうです。』 創世記 12:1~9

 転んだり、バトンを落としたり、何が起こるか分からないリレー競技は、一人一人が与えられた責任分を走るという意味で、信仰生活に似ている。
 テキストはアブラハムがまだアブラムと名乗っていた頃。彼は父親に連れられ、長い旅を経てハランに落ち着いた。
 だが、思いがけず出立の命令が神さまから出される。行き先知らずの旅にも関わらず、彼はそれを受ける。75歳の時だった。
 これに対して「祝福する」との神さまの約束がなされた。これがアブラハム契約である。
 再度のしんどい旅路の末に、カナンにたどり着いたアブラム一行。またぞろ神さまからの声がかけられる。「あなたの子孫にこの土地を与える」と。「嘘!そんな訳ないでしょ?」と言いたくなるような神さまの言葉だ。「あなたへ」、アブラム本人にではないのだ。
 神さまの言葉は固い。「いや、そうです」と次への道がしかと示されるのだ。神さまをみくびってはならない。「キリストの沽券に関わる」(鈴木正久牧師)からだ。
 信仰の旅路は時間の旅路。アブラムのごとく祭壇を築きながら歩んで行きたい。

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20151101
メッセージ  『陰ひなたに咲く』  テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 4:13~14

 現在、宮崎の高鍋教会員である与那城夫妻は、元各務原教会員。その当時、大手建設会社員だった与那城さんは定年を待たずに退職し、介護士の資格を取った。が、思いがけず夫人のアルツハイマーが発覚。彼はすべてを断念し、故郷・宮崎に戻って、夫人の世話をすることを決意、実行され今日に至っている。
 パウロは、本テキストで終わりの日の希望を固く語る。けれどもそれは彼自身経験したことがない確信だった。
 しかし、彼は自分の人生において、主との出会いを与えられ、恐れから解放された。何も持たない者を覚え、赦し、用いられた事を通して、自分自身の生を肯定して生きる者とされたのだ。それこそが信仰の真髄だった。
 或る神学者は、「私の人生をいかに生きるか」が大切だと書く。誰かではなく、他の大勢でもなく、「わたしがいかに生きるか」。具体的には、置かれたその場所で、神の召しを感じ、そこで責任を持つことだ、と。
 与那城さんはまさにそうされた。パウロもそうした。実は私たちの人生の陰日なたに、神さまの恵みが咲いていたからだった。その真実の光に包まれて歩みたい。

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20151025
メッセージ  『新しい朝が来た!』  創世記 1:1~5,24~31

加島祥造の詩集「求めない」には、求めるばかりの生き方から本来の自分を取り戻そうというメッセージがあふれる。
 聖書は科学書ではない。が、水の誕生の出来事には、単に偶然とは思われない、「信仰的」秘儀を思わされてならない。
 創世記には、最後に人を作られた神の深い満足が記される。それは人の命に与えられた「かけがえのなさ」である。障がいを持つ人たちは、特にそれを敏感に読み取られる。
 加島さんが描いたのは、その「かけがえのなさ」を取り戻そうということではなかったか。
 偽装にまみれた劣化社会の現代。命に対して何も求めずに生きることはできない。イエスは「求めよ」と呼びかけた。かけがえのない命を作られた神に対して「神の正義と愛と真実」を求めない訳には行かない。
 感性を高めるには「他者の言動に心を寄せる」ことと書いた女子学生。NHK連続テレビドラマの主人公の生きざまを思う。
 2015年教会歴の最後、契約節。神の救いの約束をもう一度覚える時。新しい朝が来た!

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20151018
メッセージ  『栄光の駆け足』  ヘブライ人への手紙 121:1~2

 12日に行われた神戸平安教会100周年記念礼拝から。100年のうちにも繰り返し大きな課題が与えられ、乗り越えて来た。
 が、「教会は今、未来を語っているか」。それを考えることがこれからの一世紀への力となる、と中道牧師は語られた。
 テキストは、聖霊降臨節最終週に用いられる箇所。著者は「こういうわけで」と12章を始める。前章の11章にその「訳」が綴られている。アベルから始まってアブラハム、モーセら「信仰によって」生きた人々が延々と列挙されている。彼らは皆、各々の弱さを抱えながら、与えられた人生を「信仰によって」生きた。
 それは神が認められたことだったが、約束されたものを手に入れることはなかった、と著者は述べる。それは何だったか。
 「地上におけるみ国の実現」ではなかったか。
現在の私たちもヘブライ人同様、「おびただしい証人の群れに囲まれて生きている」(1節)のだから、「私たちの重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて生きて行こう」(2節)との呼びかけは同様に生きている。「差別はなくなります」と部落解放税年ゼミナールで講師の北出新司さんが言い切られた。希望の宣言だった。私たちもこのような励ましに支えられ、内向きにならず「ゆっくり、急いで」それぞれの人生に応じて走り抜きたいと願う。これぞ、栄光の駆け足である。

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20151004
メッセージ 『すぐおいしい、すごくおいしい!』  コリントの信徒へのへの手紙Ⅰ 10:14~22

 世界聖餐日は、ただ単に各教会で聖餐式を行う日ではなく、ともども神の愛と正義による平和を覚える、第二の「平和聖日」だ。
 靖国神社「遊就館」や境内に展示されている「偶像」を思う。軍馬100万頭が見捨てられたことを祈念する場所とは思われない。
 テキストはコリントの教会信徒へあてられたパウロの手紙。コリントの教会は指導者選びか始まり、多くの課題を持っていた。
 人間の数より多いといわれた神話の像が町にあふれていた。神殿の横には、参拝で持参したささげ物の肉を用いる食堂が隣接していた。
 そこに肉を持参できる人はお金持ちや地位ある限定された人だった。貧しい人の存在は顧みられない不平等な食堂だった。
 その食堂に教会の一部の人々が出入りし、批判に対して自己正当化を図るのみだった。パウロはそれに対して厳しく警鐘を鳴らしたのだ。
 5000人の給食の出来事を思う。わずかの食材を用い増やされたイエスの業は、食べて皆が満腹しただけでなく、余ったという。「すぐおいしい、すごくおいしい」が福音の基本。無条件で与えられる天からの恵みである。これを覚えて聖餐に与かりたい。

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20150927
メッセージ 『僕らんちは、教会だった!』  ルカによる福音書 16:19~31

 或る著名な科学者と建築家の対談から。建築家いわく、「人間が住むところは直線ではない」と。科学者いわく、「ものごとは名詞ではなく動詞で考えよう」と。
 テキストは一人の金持ちのたとえ話。彼の門前で貧しい人が亡くなった。金持ちはその存在を知っていた。その後、貧しい人は天国へ迎えられ、金持ちは地獄へ堕ちた。だがなお金持ちに真の反省はなかった。―という話。
 金持ちはまさにものごとを動詞で考えることができなかったのだ。彼にとって貧しい人は知識の上だけの存在に過ぎなかった。
 陣内大蔵牧師が書いた「僕んちは教会だった」(教団出版局)には、父親が牧師で、教会に生まれ育った故の様々な喜怒哀楽が隠すことなく描かれる。どこに神さまがいるかあちこち探しまわったが、発見できなかった思い出も。
 歌手になり、紆余曲折の末に牧師となった時、
子どもの頃の疑問の答えを知った。「神の国はあなたがたの間にある」と。
 教会こそは直線では作られない。そこは動詞の愛を学ぶところ。神さまに聞き従うことのために試練が与えられるのだと知るところ。単なる建物ではない。僕らんちは教会だった!

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20150920
メッセージ 『欲しがりません、数までは』  テモテへの手紙 6:1~12

 安保関連法案の審議に関し、「数」を背景に強引な手法を取る権力の在り様を、私たちはまざまざと見た。
 本テキストは、誤った信仰理解に対する批判と、本来の道への導きが書かれた「牧会書簡」の一節。そこには欲望への厳しい指摘が描かれた。
その具体例は、今日も同じで尽きることがない。個人の日常においても、教会の日常においても。「食べる物と着る物があれば、私たちはそれで満足すべき」(8節)と著者は述べる。が、単に倫理・道徳的勧めではなく、「永遠の命を手に入れなさい」(12節)こそが、一番の主張である。多くを求めるのではなく、ただ一つの大切なものを目指そう、これが著者の真意と見る。お金やモノだけでなく、知識でさえも貪欲になる私たちだ。数が多いと目がくらむことの何と多いことか。満ち足りている時、見えないものが確かにある。
 戦時中、贅沢を戒めるキャンペーンに乗って嫌がらせをした人々は、それを肯定する圧倒的時代風潮をバックにつけた。選ぶ権利は大切。しかしあれもこれもではなく、本当に大切なただ一つのものを選びたい。それは神さまの愛と正義によると信じる。

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20150913
メッセージ 『心底貧しい人には、神様からの力がある。』 マタイによる福音書 4:24~5:11

祈 り            川上直哉牧師
川上直哉牧師プロフィール:
歴:1973年牧師の家に生まれる。神学博士(立教大学)。日本基督教団仙台北三番丁教会担任教師。東京基督教大学において神学生寮の担当職員を担当した後、2001年から仙台に住み、日本基督教団仙台市民教会主任担任教師を経て、現職となる。併せて、非常勤講師(仙台白百合女子大学・東北学院大学・宮城学院女子大学)、仙台白百合女子大学カトリック研究所研究員、宮城刑務所教誨師、NPO法人「東北ヘルプ」事務局長、宮城県宗教法人連絡協議会常任幹事、「心の相談室」共同代表、反貧困みやぎネットワーク事務局長代行、「特定秘密保護法に反対する牧師の会」呼びかけ人。2015年度より放射能災害の減災を目的として家族は沖縄県に移住中。著書に『日本におけるフォーサイス受容の研究』(キリスト新聞社)、『被ばく地フクシマに立って』(ヨベル)、『食卓から考える放射能のこと』『被災地支援と教会のミニストリー』(共著・いのちのことば社)。




20150906
メッセージ 『口笛はなぜ、遠くまで聞こえるの?』  ローマの信徒への手紙 14:1~12

 とある芸人が成功した結果、天狗となり、すっかり本来の性質を忘れてしまったという。人は過信する。
 パウロはかつて熱狂的律法主義者だった。度が過ぎて人を裁いた過ちを主との出会いを通して知らされた。「自分を過大に評価しないこと」。「信仰の在り方は、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきこと」。それ故、食べ物のことで勝手な解釈をすることを止めた。
 ルカ14章に、安息日に水腫を患った人を癒したイエスを批判した律法学者やファリサイ派の人々に「自分の子だったらどうなのか?」と反論したイエスの出来事が描かれている。
 実は律法の問題ではなく、人としてどうあるかが問われるのだった。表面上のことで裁き合わず、互いの向上を願ったパウロだった。
 1974年のアニメ「アルプスのハイジ」の製作スタッフは、アルプス現地ロケを行い、口笛が遠くまで響き渡るのを現実に体験した。
 信仰のスタイルは人それぞれである。任されている。ことほど軽やかである。押し付けてはならない。
 信仰の秋、私たちも口笛を吹きながら、軽やかにこの道を歩みたい。

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20150830
奨 励  『被爆70年を迎えたヒロシマと私』
祈 り            小黒純さん
讃美歌  子131  かなしいことがあっても
 
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20150823
奨 励   『愛に生かされ、愛に生きる』  ヨハネによる福音書 15:1~17
祈 り            今村幸子さん
讃美歌  493  いつくしみ深い

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20150816
奨 励   『試される腕』  マルコによる福音書4章35〜41節
祈 り            片岡正義さん
讃美歌  419  さあ、共に生きよう

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20150809
メッセージ 『飾りじゃないのよ、涙は。』  ルカによる福音書 12:35~40
 ―70回目の長崎原爆記念日に当たって―

 2007年の8月6日に語られた、当時の秋葉広島市長の平和宣言文に、多くの人々が泣いた。
それは普遍の悲しみの涙であり、世界へ向けて流された平和への思いだった。その涙を神はきっと知っておられる。
 「思い悩むな」のあとに「目を覚ましていなさい」と続けた主の、テキストの編集の意図は?
 あしなが育成会が行った集会で、当初反目していたイラクとアメリカの少年は、最後に抱き合って泣いた。
 静岡のやまばと学園を創設した長沢巌牧師は「祈り、働き、委ねる」ということを再三語られた。働くとは、人と人をつなぐこと。そしてそれは喜びの働きであった。
 テキストはまさにそれを物語っていた。その模様がガリラヤのイェシュー版に豊かに描かれている。あるじは、僕の悲しみの涙を喜びの涙へと変えたのだ。
 思い煩わないで祈ろう。そして働こう。最後は委ねよう。神は悲しみの涙が喜びの涙へ変わるよう力を与えて下さると信じる。

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20150802
メッセージ 『平安までがワンセット』
 ―平和聖日にあたって―

テキストには「キリスト教的生活の規範」との小見出しが付けられている。規範は大切だが、注意しないと律法主義に陥る危険性を孕む。仏哲学者マルセルは「信仰は一人物に誠実であることから成り立つ」という。また、「信仰は見えないものが見えること」とも。
 共観福音書に記される富める青年の物語。青年は見えるものは良く見えた人だった。
 パウロは「自分を賢い者とうぬぼれてはならない」(16節)と注意した。船本弘毅先生が、教師時代を振り返って、「一人の子どもに目を向けなければならない」と真摯な反省を書かれている。
 藤尾正人牧師は著書「ほっとしなけりゃ福音じゃない」で、「クリスチャンとして」力み過ぎると自分も周囲も窮屈になると述べる。
 信仰はハ行にあり。はっと驚かされ、ひーと悲鳴を挙げ、ふっと気が付き、へーと感嘆させられ最後にほっとする。平安を与えられるまでがワンセットである。
 驚きと平安の中から、希望と願いが生まれ出る。
それが神への私たちの姿勢でもあろう。




20150726
メッセージ 『汝(な)が人生に悔いはない』

 或る教会の50年記念誌に書かれた牧師の文章に賛同する。ワーズワースの「私たちは7人です」という詩物語を思い起こす。既に召された方も含めて、私たちの人生は神の歴史の中に刻まれている。
 イエスは「幸いな人」を8人語った。地を受け継ぐ3番目は「柔和な人」、天の国を所有する8番目は「義のために迫害される人」だ。柔和(プラーエイス)とは、本来「優しい、耐える」との意味。耐え忍び互いに助け合う関係を、イエスは「優しい」と表現した。ペトロの手紙でも、義のために迫害される人が言及されている。現実がそうだったし、背には主の言葉があった。揺れ、ブレる私たちに「イエス」という、真に柔和な人がいることを著者は伝え、そこに立つよう示した。塔和子さんの詩から、それを求める魂の叫びを聴く。
 右だろうが左だろうが同じではない。人間のイデオロギー、この世の価値感に立つ限り、悔いが残るは必定。
 私たちは主のものとして、イエスという土台に立つならば、真に悔いはないと信じたい。




20150719
メッセージ 『我ら神の子、知らないの?』

 「人生とは、こんな苦い思いを抱えて生きねばならないものか」と嘆息するような出来事が、時に与えられる。
 重い障がいを持って生まれた赤ちゃんは、懸命の世話にも関わらず、8ヶ月で召された。クリスチャンの両親は墓にマタイ11:28の聖句を刻んだ。
 念願の体育教師になった青年は、事故で車椅子の生活を余儀なくされた。絶望の中で思い出したのは、子ども時代に見かけたとある墓の文字。彼は洗礼を受け、口に筆を加えて絵を描く人となった。星野富弘さんである。
 テキストは、フィリピの教会で起こった2人の女性指導者のいさかいに対し、「喜びなさい」と書いたパウロの思い。信仰の本義は、「他者・隣人の保全」と某神学者は言う。全体を見よ、とブラウニングは詩に綴った。
 摂理(プロヴィデンス)とは、前もって見る、予め備えるという意味。それが神の計画である。命の意味は部分を見ても分からない。主と結ばれ「神の子」とされ、命の意味を知らされたパウロは、感謝に溢れてフィリピの信徒に声援を送る。私たちも神の子である。




20150712
メッセージ 『偽善エネルギーにご注意!』

 善意のつもりでなした言動でも、予想外の結果となることがある。ましてそこに意図があるとするなら。
 ガラテヤの教会で、割礼など律法最優先を主張する者たちが影響を与え始めた。パウロは書簡を送って激しく反対を唱えた。これが「キリスト者の自由」である。
 テキストは一見温和な言葉で、信徒へのお勧めがなされている。が、ここには秘められた激しさと皮肉の発露が込められている。
 律法派は、恐らく表向きは柔らかく周囲を取り込んだに違いない。無論、彼らの背後にも神がついているのだから、やっかいである。
 パウロの真の主張は、それに引きずられることのないよう、大切な仲間と共にあるように、というお勧めだった。
 宗教でも、その他でも、柔和な形をとって取り込もうとする企みが尽きない。ただのお人よしであっては困る時だ。私たちは隣人に対して責任ある者。取り込もうとする意図を見抜き、賢く対処する力が求められる。その力の源は、あくまでもイエスに繋がって与えられる。
(部落解放祈りの日の礼拝にあたって。)




20150705
メッセージ 『出かける時は忘れずに!』

 大谷牧師たちの裁判で、一人の拘留者が担当弁護士を解任しそうになった。が、弁護士が謝罪して、免れた。謝ることができる事は素晴らしいと思う。
 テキストは、パウロの長い説教によって青年エウティコが転落死した出来事。同行したルカは医者だったから、恐らく彼が最期を看取っただろう。が、パウロはルカの宣告に反して、「まだ生きている」と宣言し、引き続き集会を守った。
 専門家の意見は重い。しかし専門家であっても時に失敗は犯す。それ故に、謙虚でなければならない。それ故に、見失うものがあり得ることも忘れてはならない。
 ルカは、パウロの言動からそれらを示されたのだ。だからこの出来事を記録した。
 私たちは外出する際、身なりを整える。そのこと以上に大切なのは、不必要な「顔」を取り繕わないことだ。万一の失敗に備えて、謙虚さと語るべきものを保持したい。諦めではなく、「これから」の視点。それこそがキリスト者にとり、教会にとって欠かせない外出時の必需品。




20150628
メッセージ 『神ングアウト』

 5年前、八日市教会に吸収され100年の歴史を閉じた近江野田教会。その始まりは、天下の放蕩息子と知られた浦谷貞吉によった。救世軍に救われ、ヴォーリズ宣教師のコックを務めた彼が、嵐の中艪を漕いで宣教師たちを野田に連れて来た事が野田教会誕生の礎となった。その夜、村民60余名が集まる集会となった。これを野田教会では「恩寵の嵐」と呼んで感謝を重ねて来られたのだ。これは神さまの導きによるシンクロニティ(同時性)の業だった。
 テキスト、ペトロの説明も同じことを描いている。割礼していない人にも自分にも同時に同じ聖霊が注がれたから、洗礼を授け、食事を共にしているのだ、と。
 それは説明・言い分というより、告白。それもカミングアウトだった。神さまの導きは、自分だけに特別与えられるのではない。誰にも同じ導きが与えられる。そのシンクロニティが出会いを豊かにするのだ。そしてそれは劇的な事だけでなく、生活の中の小さな事にも満ちている。
 導きは同じでした、と神さまにカミングアウトする者とされたい。




20150621
メッセージ 『逆境もまたよし』

川上牧師、如来寺の釈徹宗住職ともに、被災地の復興について「物語を紡ぐこと」の大切さを語る。
 フィリポは、同労ステファノの殉教を発端に起こった大迫害から逃げてサマリアに来た。そこでの伝道を成功させたが、ペトロとヨハネの来訪に傷つき、天使に命じられるまま、ガザへ下る道に出かけた。
  それはうら寂しい道のり。サマリア同様またぞろ希望のない道行に思われた。そこで出会ったのがエチオピア女王の高官であり宦官だった。この宦官もまた機能を奪われ、エルサレムでは差別を受けて帰る孤独の人だった。が彼は神を求めてイザヤ書を読んでいた。
 フィリポの説明を受けて受洗を申し出た宦官。福音はいつも新しいものを引き込み、新しさを証しする。
 意味のない苦難は、人を疲弊させる。故に、敢えて与える逆境などナンセンス。が、その苦難に意味を発見し、神の紡ぐ物語を読み取るならば、逆境もまたよし、だ。そこで人は新しく生きる力を得る。




20150614
メッセージ  『神さまのカレンダー』

 人気アニメ映画「千と千尋の神隠し」は、主人公の少女千尋が思いがけず与えられた出会いや体験を通して変ってゆく姿を描く。
 弟子たちは、イエスの訣別説教の言葉が理解できなかった。自分中心の願いにのみ生きていたから。
 仏作家セスブロンは、「新しい空気を摂取するように息を吸うのが祈り」と述べる。
 子どもが持つ素晴らしい宇宙の存在を大人になるに連れ、忘れてしまう。単なる想像力の問題ではなく、神の時間に生きる喜びのことである。
 一見、無駄、空しいとも思える体験が、本当はその後をいきいきと生き抜くためのかけがえのない時間と場所、と敬和学園の小西校長は言う。その時間こそが神様の時間、カイロスである。
 私たちも弟子たち同様、自分中心で、忘れる。そして人間の時間クロノスを生きる。その時、どんな出来事もただ紙製に記された行事に過ぎなくなる。
 神様のカレンダーに行事は記されない。が、そこに予定され、備えられる体験は、その人にとってかけがえのないものとなる。このカレンダーに沿って歩みたいものだ。




20150607
メッセージ  『隣人の時代』

 「もはや戦後は終わり、我々は3・11後という新しい世界に生きている」(佐藤優)。私たちは多くのものを失ったが、これからを模索しつつ歩んでいる(はず)。
 テキストは祭司・長老・律法学者たちに捕えられたペトロとヨハネの弁明。罪状は、直接的には足の不自由な男への癒し。及び主の復活の伝道。
彼らはイエスの再登場を嫌った。権力が脅せば黙ると思われたが、ペトロの弁明は予想外の態度で、驚かされた。実は恐れていたのは権力の側だった。
 ペトロたちは神殿で足の不自由な男と出会った。彼は施しを受ける日常を強いられていた。「主の名によって」癒された彼は、躍り上がって喜び、ペトロとヨハネと共に神殿境内に入って、神さまを賛美した。本来の自分を取り戻し、新しい世界が始まった。ペトロたちもまたこの男性と共にその喜びと恵みに与かったのだ。
 「これからホームレスの概念が変化する。私たちはいのちに寄り添う働き」(福岡おにぎりの会報より)。聖霊は隣人と共に生きる生き方を与える。これからは隣人の時代が始まるものと信じる。




20150531
メッセージ  『成功する人は終末を無駄にしない』

 これまで再三なされて来た終末予言は皆はずれている。過去から未来にかけ繰り返される偽予言。
東日本大震災は(とりわけ被災者には)世の終わりとも思われるものだったろう。が、ゼロではなかった。その復興への道のりは遠いが、同時に始まりを思わせられる。
 テキストは聖霊を与えられた弟子たちが様々な国の言葉で語り出した事の続きの箇所。
 あざけった人々に向かって、証しを語り出したペトロら弟子たちだった。聖霊を与えられ、新しい出発を促されたからだ。以前なら、口を閉ざしていたかもしれない。
 生前、主は終末の徴について語られた。そ
れは終わりではなく、解放の時が近いのだ、
と。だから身を起こして頭を上げよ、と。
 震災の地にきっと主はおられた。それ故に人々の新しい出発が始まっていると信じる。
 避けようのない様々な「嫌」なことが人生には起こる。しかし、その中にあっても置かれている恵みを数えて歩みたい。人生に成功する者(命を肯定できる者)は終末を無駄にはしない。自らの力によるのではない。聖霊がそのように働くのだ。




20150524
メッセージ  『あんたがアンカー』

「リア充」なる言葉が流行るほどにインターネット社会になった現代・・。
 ペンテコステに当たり、「教会」とは何かを今一度考えたい。
 聖霊の象徴は、激しい風のような音と炎のような舌。後者は、弟子たちが外国の言葉で語り出したことを指す。教会とは建物や組織ではなく、「語る」こと、「発信」することにあった。
 が、その前に主の命令があった。弟子たちにとっては、裏切りを忘れる訳には行かない町エルサレムに留まるよう、主は命令した。そして彼らは聞いたのだ。
 前者は、彼らが聞く者とされたことを込めた表現だ。そして一人一人が、その欠けにも関わらず、用いられ、語る者とされた。
 「教会はのどかな田園や学校や研究所の中庭で始まったのではなく、弟子たちの熱心と勇気と努力と信仰によって始められたのでもない」(星野正興牧師)。
 今も同じ。私たち一人一人が教会の実態である。アンカーマンである一人一人が、聞く者とされ、そして語って行くところ。
 教会の誕生日とは、私たち一人一人の誕生日でもあった!




20150517
メッセージ  『人生は<一緒>の方がいい!』

 毎年、教区総会で繰り広げられる、余りにも対立的な議論を寂しく感じる。本来は互いに仲間であるのに。
 テキストは決別説教の中核部分。前段落は「主はまことのブドウの木」と語られた有名な箇所。力強い導きであり、励ましである。
 ところが、続いて語られたのは「迫害の予告」。それもイエスに従うからこそ迫害される、とのこと。弟子たちは不安に襲われたであろう。
 けれども主は、恐れず語り続ける。それは「世のほうが間違っているから」だと。(ケセン語聖書で読むと、よく分かる。)
 危機が迫る時、内部はうわつき、揺さぶられる。仲間だった者同士の諍いも起こり得る。実はそれこそが敵の狙いであり、真の危機だ。分裂は、思う壺なのだ。
 主は、そういう事態を見越した上で、助け手が送られることを予告する。助け手という名の聖霊である。
 一緒に歩む方がいい。憎しみ合い、傷つけ合うより、よっぽど。主が私たちを選び取って下さったことを、ゆめゆめ忘れるまい。




20150510
メッセージ  『幸せは歩いて来ない、だ~から?』

 子どもの頃は純粋に(無邪気に)呪文を唱えたりする。大人はしない。が、すべて合理的・科学的・客観的に生きることはできない。信仰はその一つだ。
 「みみをすます」という谷川俊太郎の詩は、区切って声に出して読んでみないと詩人の思いが伝わらない。心で受けるものがそこにある。
 主の昇天の出来事。それもまた科学的実証の類ではないもの。「信じる」とは無批判を指さないが、一方で分析ではない。
 イエスは弟子たちの「心の目を開く」ために聖書の言葉を語られた。信仰は「受ける」ことだった。
 幸せを求め、私たちは様々もがく。が、満たされる事は少ない。星野富弘さんが「いのちが一生懸命俺を生かしてくれている」と書いたように、自分の中に貯めるのではなく、心を外に向けることだ。
 例えば貧しさのうちにも温かいものがあり、それは逃れ拒否しようとするなら発見し得ない。方向が逆だと主は示される。
 幸い、弟子たちは「心の目を開かれた」。それ故に「大喜びで帰り、神殿の境内で神をほめたたえた」のだ。幸せは歩いて来ない。それはいただくもの。私たちもそうでありたい。




20150503
メッセージ  『もう一人にはさせない』

 大谷牧師の支援を通して、それは大谷牧師が愛して来た釜ヶ崎の友を支えること、私が愛することだと気づかされている。
 イエスが「もう弟子を僕とは呼ばない」と言われたのは、彼らが僕には成り得なかったからだ。が、それを責められたのではなく、十字架への時が来た故にそれでよし、とされたのだった。すべて主の側からの選びだ。
 ホームレス支援を長年行って来た北九州の奥田牧師の言葉から教えられる。伝道とは、
隣人になること、仕えることだ、と。主が語った喜び(カーラー)の意味は、苦しみがあ
っても喜ぶことができる喜び。
 奥田牧師は語る。「イエスに従うのは誰かのために重荷を負うこと、自らが傷つくこと
ではないか。」
 なかなか言えることではない。が、傷つくのを恐れて個人の平安の中に逃げ込むのは、
もったいなく申し訳ない。
 主が「友と呼ぶ」に当たって、「互いに愛し合え」という条件、掟が与えられた。主こそインマヌエル、共におられる神。一人にさせないために、主は確かに命を捨てられた。
   感謝!




20150426
メッセージ  『アンパン・ジャムパン・クリームパン、どれが好き?』

「終わりを知らなければ、恵みを知らない」との言葉。1・17と3・11を経験した私たちは一つの「終わり」を体験した。
被災したうのさえこさんが、「絶望を感じて嘆くことは悲劇ではなく、再生へのプロセス」だと言うとおり、私たちはきっと恵みをこれから知らされるのだ。
 主は「私は命のパン」と語られ、「私の血と肉を飲み食いする者は永遠の命を得る・・」と続けられた。理解できないユダヤ人たちは我慢ならず激しい議論を始めた。
 聖餐式が主を「記念」するものと知らされている私たちには、これらの主の言葉が一応分かる。
 しかしユダヤ人にとって、血は命であり、犠牲のものとして厳しい戒めがあった。彼らには主の言葉は「異常」としか聞こえなかった。
 現在、「正常」な聖餐式を守れる私たちだが、本来、私たちのために十字架につかれ流された主の血を「衝撃」を持って受けるべき。
 「絶望こそが希望」(ジョアンナ・メイシー)。終わりを知ること、絶望と向き合うこと、そこが新しい始まりとなる。その歩みの中で、命のパンは何もつけなくても、きっとおいしくなる。




20150419
メッセージ  『平凡=奇跡×奇跡』

姉はつけものを豪快に食べる人だった。その音が、暗い食卓を明るく変える励ましの音となった。
 テキストはエルサレムの隠れ家に籠っていた弟子たちのもとに姿を洗われた主の出来事。彼らにはなおも裏切りの痛手が覆いかぶさっていた。
 食事中の彼らにイエスは食べ物を要求された。出されたのは一片の焼き魚。それが出されたのは偶然だったかもしれない。けれどもそれを食べる主の姿を見て、弟子たちは本人と確信すると同時に、自分たちが赦されたことを喜びのうちに受け入れたのだった。
 イエスの持つユーモアの出来事といえるかもしれない。1998年の米映画「パッチ・アダムス」は、ピエロに扮して子ども達を激励するアダムス医師の映画。底通するものを想う。
 生きる関係には、ユーモアとともに愛情をかけることが大切。信仰は破れを認めることだから。
奇跡は平凡に置かれるご褒美ではない。今日生かされる奇跡を重ねることを、私たちは勝手に平凡と呼ぶ。当たり前の人生ではなく、奇跡のものとして取り戻される方がイエスだ。




20150412
メッセージ  『あの素晴らしい愛、思う一同』

一見の景気回復に沸く現在。これまで随分と厳しいリストラが実行された。イースターは、黒字転換ではなく、敗北からの転換。
 或る女性は思いがけず現れた野犬を見てUターンした。たまたまではなく、神による必然の備え。故郷エマオからエルサレムへUターンした二人も弟子も然り。
 青木哲男の詩「イエス」から、主の根本は「神の権威を預かった優しい人」だったと知らされる。その思い出が現実に蘇った。
 T牧師は、復活とは「体験するもの」と説く。鷲田清一さんの文章を通して、私たちは「想像するものを模倣する」存在だと教えられる。
 弟子たちの体験がそうだった。そして私たちも。主と共にあって「心が燃えるような」思いを想像し、現実を組み立て直すのだ。裏切りさえ赦し用いて下さるイエスの愛。その素晴らしい愛を思う一同でありたい。




20150405
メッセージ  『実践上のマリア』

「終わった」と受け入れざるを得ない瞬間がある。次はない。死はその最大のもの。
 安息日が終わるや否や、早朝からマリア(マグダラの)は主の墓へ急いだ。行ったからとて、何もできないのだが、そうするほかなかった。
 十字架上で「テテレスタイ」と言ってイエスは息を引き取った。それは「終わった」という意味である。成し遂げられた、は相当の意訳。
 その言葉を聞いたマリアたち。確かに終わったのだった。ところが、墓は空になっていた。当局がどこかへ?と想像して、弟子たちのところへ急ぎ報告した。
 遺体すら失って、茫然としているマリアに、主が現れた。「マリア」との呼びかけを聞いた瞬間に、主であると悟った。
 それは死の終わりを全く凌駕するものであり、これまでを支え、これからを励ます呼びかけだった。
 主は再び立ち上がられた。その主がマリアを立ち上がらせた。彼女はその真実を知らせに弟子たちの元へ走った。
 復活とは、もう一度立ち上がることだった。
イエスの復活から力を得た最初の人、実践上のマリアである。

 
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